【深夜アニメ】技術は進化しているのにクオリティが下がってしまった理由を考えるPart1
自称アニメ・ラノベ評論家、オレオだ。そういえば、「アニメ・ラノベ評論家」と言っておきながら、アニメのことを書くのはとても珍しい気がする。たまにはこういうのも良いだろう。
今、塗り絵にはまっていて、毎日ちょこっとずつやっている。絵を描くことはめちゃくちゃ苦手だから、私にとってはとてもありがたいものである。まだ初めて間もないから上手とは言えないが、ツイッターに写真をアップロードしたから良ければ見てみてほしい。
さて、今回は「最近のアニメは5年前よりもクオリティが下がっているように感じる」という私の勝手な考えについて書いていく。
深夜アニメは、放送が始まったであろう2000年代前半からずっと人気を集めており、今や毎日数多くの作品が放送されている。同時に、科学技術は超高速で進化し続けていて、どんどんアニメにも新たな手法が取り入れられていった。画質や動きの多さといった一目でわかるところから、専門的なところまで、数えきれないほどの進化があったと思う。
しかし、最近のアニメの一部は、「前のほうが良かった」と思えるような出来になってしまっていると感じる。この記事では、その理由を考えていくものである。
色々な考え方があると思うので、あなたはどう思うか、読み終わったらぜひ聞かせてほしい。
〇最近のアニメは大人気作品がない
最近のアニメがクオリティが下がったなあと思う根拠として、まず挙げられるのは「誰でも知っているような大人気作品があまり出ていない」ことだと思う。
私は見るアニメの系統が幅広いわけではなく、見ていない作品はたくさんあるのだが、「見ていなくても知っている作品」というのはたくさんある。それは例えば、OPEDが大人気であるとか、あるセリフが有名であるとかで話題になった者たちだ。
最近のアニメには、そういったものが非常に少ないと言えるだろう。ぱっと思いついたものは「けものフレンズ」くらいのものだ。
何でこんなことが起きるのかということを色々考えてみたのだが、理由の1つとして「ニコニコ動画」の衰退が関係しているのではないかと思ったのである。
「ニコニコ動画」では、アニメをコメント付きで視聴したり、アニメをもとに動画を制作するということが良く行われていた。そこでは、みんなが共感するポイントや、OPEDの空耳など、大きな話題となるものが数多く誕生した。それで有名になっていった作品は多いと言えるし、みんながそれを楽しんでいたのだ。
だが、最近は著作権の規制が厳しくなってそういう動画制作ができなくなったり、YouTubeが人気になってきたせいで、視聴者が一体となってアニメを見る文化はなくなっている。だから面白いところやツッコミどころを指摘しあってコンテンツが大きくなるということがなくなったのである。あくまで、個人が見たいものを見るというように変わっていったのだ。
最近のアニメは、昔はいたはずの「視聴者」という名の第2の作り手を失ってしまった。だから、大きな話題になるアニメが現れなくなったのだと私は考える。そもそも、SNSの多様化が進みすぎて、アニメについてネットで語り合うという人自体があまりいなくなってしまった。だからだんだんとアニメそのものの人気が落ちていき、製作にも力を入れられなくなっていったのではないだろうか。アニメの制作者とは違うところにも、アニメのクオリティが下がった要因はあると、私は思うのだ。
続きはまた次回にしよう。次回はもっとちゃんと「アニメのクオリティ」に触れていくつもりだ。
アニメにしろ漫画にしろ、そして小説であっても、みんなそれぞれいろんな楽しみ方があると思う。私のように考えを書きまくったり、絵が描けないとわかって塗り絵をしてみたり。そういう人を狙って(かどうかは知らないが)塗り絵を発売している人もいる。まだまだ廃れるには早すぎるこのコンテンツを、少しでも発展させられたらと思う。
私がたまに感じる「空間の気」について語ってみる
自称アニメ・ラノベ評論家、オレオだ。今回は、小説の話ではなくて、私自身の話をしようと思う。
このブログを見てくれている方々に、更新頻度が減っていることをこの場でお詫びしたい。また、勉強やその他の生活により、今後もこの程度の頻度になってしまいそうなことをお伝えしておく。
今回もそうだが、しばらくの間は「ネット小説関連の話題」があまり出ないかもしれない。思いついたことがあれば小出しにすることはあると思うが、まだ何か月も続けて書くような大きなテーマやジャンルを決めることができていないのだ。小説を読む時間自体もなかなか取れない。時間はかかってしまうと思うが、気長にお待ちいただけたい。
その間は、日々感じたことを書くことが増えると思う。できるだけ小説のネタになるように書いていくつもりなので、もし気に入ったものがあったら、執筆のお供にしていただけると嬉しい。
もう3か月以上も前のことだが、自己紹介の記事で、「原因不明の病」にかかったことがあるということを言ったと思う。まあ別に外傷が残ったり、生活に支障が出たりしているわけではない。ただ、それからというもの、私には、所謂「気」のようなものをうっすら感じられるようになった。はっきりと自覚したのは最近だが。
〇私が感じた「気」の体験
あなたは、例えば「この道はなんか嫌だな」とか、「この店は入りたくないな」と思ったことはあるだろうか。生きていればみんなこんなことは考えそうなものだが、その中で、「人も、見た目も、音楽も、空気も。何も変ではないはずなのに気になる」という経験はないだろうか。
つい先日、私はこれを体験した。そこは、何の変哲もない市民会館の会議室。ホワイトボードがあって、長机がたくさん置いてあるやつだ。私はそこにアロマセラピーの講座を受けに行ったのだが、他の人は何も気にしていないのに、なぜか落ち着かなかった。
久々の勉強会ということもあって多少の緊張はあったものの、それは別に特別なことではなかったし、あまり関係がない。同じような会議室にも何度も言ったことがあるが、このようなことは初めてだ。
なんというか、圧迫感があるのだ。壁が押し寄せてくるような、そんな気配があった。
私は閉所恐怖症なのだが、小学校の教室程度の広さはあったし、もっと狭い部屋など、山ほどある。それなのに、そこでは身動きが取れなくなったような気がしてならなかった。だから講習中ずっと肩を回したり足を動かしたりし続けていて、歩きたくてしょうがなかった。
その話を休み時間に講習の先生にしてみた。その先生は私なんかよりもよっぽど色々なものが感じ取れるらしく(植物と話ができたりするらしい)、何か参考になるかと思ったのだ。
そうしたら、「確かにここは悪いですね」とおっしゃった。エネルギーの流れでも見えるのだろうか。それから、何かをもった手を大きく振り回した。まるでそれはお払いのようで、それが終わってからあまり気にならなくなった。
先生が本当にそういう力を持っているかどうかはともかく、実際に私は、「悪い空間」と「それが無くなる瞬間」を感じることができた。あれがなんだったのかはよくわからないが、これはかなり貴重な経験になったと思う。
〇身近に意外とあるかもよ
そんなことがあったわけだが、私が他によく体験する場所として、神社が挙げられる。私は特定の神を信仰しているわけではないが、その空間に入ると、明らかに外とは違う空気が流れている気がするのである。言葉で表すならば、それは涼しく、そしてとても澄んでいる。
神社には大木があるから空気がおいしいというのもあるのかもしれないが、それだけでは言い表せない何かが、神社にはあるのではないかと私は考える。もしも興味がある人は、散歩がてら行ってみてはいかがだろうか。
〇大半の人が認識できないだけで、オカルトは実在するのかもしれない
というような感じで、私は「科学では説明のつかない何か」に足を踏み入れてしまったようだ。まあ、人間の脳はほとんどが解明されていないのだから、本来感じられるものが機能していない、という可能性は十分にあり得る。だから、私は「不思議な力」を持つ人間を否定するということは、人類の発展を止めてしまうことだと思っている。
我々はファンタジー世界を妄想だと思っているが、そんな本当は存在しないものを考えだした人たちだって、常識から外れた何かを感じたり、見たりしたから思いついたのかもしれない。本当にオカルトチックなことを感じ取れる人がいるならば、もしくは、それを操れる人間がいるならば。いつかは魔法やスキルと呼ばれているものが普通になる、ということもあり得るのだ。
そして、あなたももしかしたら、気が付いていないだけで他の人には感じられない何かを感じているかもしれないのである。
こんな感じでこの話は終わりだ。どうだろうか。小説の参考になれば嬉しい。もちろん、人生に役立ててくれてもオーケーだ。頭の片隅にでも置いておいてくれ。
さて、まだ20年も生きていない私だが、これからもお役に立てるよう、無理をしない程度に頑張っていく所存である。何か質問やテーマの要望があれば、どんどん送ってほしい。しばらくの予定は未定なので、それがあるととても助かる。
【オリジナリティ出しすぎ注意】読者目線で考える「読みやすいネット小説」 part2
自称アニメ・ラノベ評論家、オレオだ。私はYouTube世代なのでニコニコ動画をよく知らないのだが、ニコニコの弾幕を見ると、これに勝てる動画はYouTubeにはないだろうなと感じる。視聴者が動画と一体になっていて、音楽ライブのような感じがするのだ。実際、視聴者の空耳などによって人気が出たものがたくさんある。あれこそ、動画を1番盛り上げる方法なのではないかと思う。
前回の続き、というか、本題だ。具体的に、どんなことが読みにくい原因になるのかを、どんどん書いていこう。ここら辺、書くことがないと少し寂しいな。
〇無理があるキャラ付け
キャラクターの話し方や仕草を印象付けることは、読者が「どのキャラクターが行動しているのか」を理解するのにとても重要なことだ。それを徹底することで、キャラクターの名前をいちいち出すことなく会話を成立させたり、主人公が見たり聞いたりしていることを、よりリアルに読者に伝えることができる。いや、読者が想像しやすくなるのだ。
だから、キャラ付けのために現実にはほぼあり得ないだろう性格を持つキャラクターや、なかなか日常生活で聞くことのない話し方をしているキャラクターは小説では定番だ。読者も作者も、それをフィクションとして楽しんでいるから、それはどんどんやって言ったほうが良いと思う。
しかし、キャラ付けのためなのか、それとも新たな書き方を模索しているのか、語尾や口癖に明らかに無理がある作品をいくつか見かけたことがある。なんというんだろうか、効果音をそのまま語尾にしたようなやつだ。そう、子供が読むような絵本に出てきそうなやつである。
それは、とても強烈にキャラをアピールしてくるから、キャラ付けとしては成功しているのかもしれない。だが、物語は「世界観を大事にする」ことが非常に重要なのである。とても悪い言い方になるが、無理がある語尾は、世界観を崩壊させる「異物」となってしまうのだ。それは、読者の視線を強制的に集めてしまい、物語の邪魔をしてしまう。
だから、マスコットキャラクターとして1人程度登場させるならまだしも、登場人物全てが、読者が許容しがたいレベルの語尾にするのはやめたほうが良い。仕草や性格も同様だ。
これは、物語に直接関係ない、でも読者が小説を楽しむためには非常に重要なところなのだ。だから、「つまらない」のではなく、「読みにくい」となってしまうのである。
ただ、私がこれが理由で読めなくなった作品が書籍化したという話を聞いたので、私が気にしすぎているという可能性もある。でもやはり、基本は「音読できるくらい」を指針に自然な言葉遣いをしたほうが賢明だと思う。
〇不必要な「敬体」「常体」の混合など、文の書き方がばらばら
今調べて初めて知ったのだが、所謂ですます調のことを「敬体」、だである調のことを「常体」というらしい。今度は、この話だ。
人それぞれどちらを使うかは好き嫌いがあるが、小説はどちらかというと常体が使われることが多いと思います。わざと今やってみたが、敬体と常体が混ざってしまうと、こんな風に違和感が生まれてしまう。基本的に、これは統一したほうがきれいだし、わかりやすい。
しかし、小説の場合、「普段は常体を使うけど、あるキャラが語っているときだけ敬体にする」みたいなことがよく起こる。これ自体は何もおかしくないし、違和感もないのだが、頻度や使い方を間違えると、一気に変な文になってしまう。
私が見たのは、「1人称で書かれていて、普段は常体。でも、ちょいちょい入る主人公の気持ちの部分は敬体。しかも毎回語尾が変わる」というものだ。これでは、主人公の感情が入った瞬間ペースが崩れてしまい、作品に集中することができなくなってしまう。
私の勝手な想像だが、この作品は「オリジナリティを出そうとして主人公の性格を考えた結果」こうなったのではないかと思っている。自分らしさを出すのはとても大切なのだが、それによって文章がおかしくなっていないか、確認を忘れないようにすること。同じような例として、パロディネタを使いまくる主人公もたまに見るが、あれも計画性なくやってしまうとゴチャゴチャしてしまうので、読みにくくなってしまう。
こんなところだろうか。せっかくだから、これを読んだ後自分の作品を見返してみてほしい。そして、できれば自分で声に出して読んでみてほしい。ただ読むだけよりも、おかしいところが明白になるはずだ。それが分かれば、あとは簡単だ。正直、この記事の内容よりも、よっぽど大事だと思う。
前回も言った通り、これからは「なろう系」に縛られず、色々な方向に目を向けていきたいと思っている。もし、何か題材になりそうなことがあったら、是非とも相談してほしい。
【オリジナリティ出しすぎ注意】読者目線で考える「読みやすいネット小説」Part1
自称アニメ・ラノベ評論家、オレオだ。最近、1つ書いては1週間開ける、ということが珍しくなくなってしまった。私生活が忙しくなっているというのも大いにあるのだが、1番の原因は、最初の目的であった「なろう系小説」に対する不満をあらかた書き尽くしたからだと思っている。
だから、そろそろ方向を転換しようと考えている。そういえば、何か月か前にネット小説関連のコンテンツがたくさんあることを教えていただいたから、それらを調べてみるのが良いかもしれない。まあ、ネット小説から離れることはないとは思うが、色々探ってみるつもりだ。
今回の題材は、「小説の読みやすさ」についてだ。私は文章を読むときだけでなく、日常生活においても、間違った言葉を気にするタイプだ。だからなのか、読みにくい点が見つかってしまうとずっと気になってしまう。そんなことが起こらないように、私なりに注意すべきところを書きだしてみた。
〇「つまらない」は読めるが「読みにくい」は読めない
突然だが、私は、小説において「読みやすさ」は何よりも重要視すべき点だと思っている。いくら面白いものを書いたって、いくら魅力があって応援したくなるキャラクターを作ったって、読みにくかったら意味がないからだ。
例えば今、あなたが1つの小説を読んだとして、それがどうしようもなくつまらないものだったとしよう。それはキャラも微妙だし、ギャグも滑ってる、中身が空っぽなものだ。それを読み終わって、あなたは
「あー、時間無駄にしたわ」
と思うかもしれない。だが、少なくとも、それは「1つの作品として最後まで読むことができるもの」であるのだ。最低限、作品として成り立っているのである。だから、自分には合わなかった、と納得することができるし、そんなつまらないものの中にも愛着がわくことだってある。
でも、もしそれが「読みにくい小説」だったらどうだろうか。文章がめちゃくちゃだったり、物語がめちゃくちゃだったり、色々原因は考えられる。まあ、これは後で説明するから置いておこう。
さて、これらの場合、読者はどんどん「読むのが苦痛になってくる」のである。特に、私のように気になったら離れないような人なら、キャラクターや物語の良さなど全く入ってこなくなるだろう。そして、最終的には「読むのをあきらめる」という選択肢をとることになるのだ。読みたいけど読めないという事態が、発生しうるのである。
つまり、どれだけ良い話を考えて、どれだけキャラの魅力を引き出せていても、それを伝える手段自体に問題があるということなのである。
長くなってしまったが、それの原因を探っていこうというのが、今回の要というわけだ。
大変申し訳ないのだが、今回はこれで終わりだ。次はすぐ出すので、そちらを待っていてほしい。本題に入る前に辞めるのは初めてかもしれないなあ。
冒頭でも言った通り、別の方向性を探ってみることにした。今は、別のジャンルの作品を読んだりしてみているところだ。それにはまた時間がかかるかもしれないが、よろしく頼む。
新・「なろう系異世界小説」で「ステータス」を設定するのは損ではないかpart4
自称アニメ・ラノベ評論家、オレオだ。今までこの挨拶をずっとしてきたわけだが、よく考えると評論家の後に句点を打つのはおかしいと思ったので、読点にした。多分こちらが正解だろう。今までの記事を直すのは面倒なので、このシリーズのパート1からこれで行こうと思う。
前回の続きだ。もう前置きすることがなくなってしまったので、ちょっと好きな色の話をしよう。私は、緑色がとても好きだ。緑が好きな人は「穏やか」だと色々な本に書いてあったが、私は穏やかなのだろうか。好きなもののメロンや森の色に惹かれているだけのような気がするのだが。
では、本題に入る。
〇損な理由④「人間が本来持ち、小説で1番表現すべきものが欠けてしまう」
抽象的な言い方になってしまった。せっかくなので、主人公が自分の、そして他人や他の生物のステータスを見ることができると、何が欠けるかを考えてみてほしい。決まったら、次へいこう。
・
・
・
私は
「今やっていることや未来に疑問を持ったり、他人のことを考えてみたり、生きるために何をすべきか迷ったりすること」
が欠けてしまうと思っている。もしも、何をわかったようなことを、と気を悪くしたなら申し訳ない。まあわかりやすく言うと、これは「人生」そのものだと、私は考えている。
さて、もしもあなたがファンタジー世界でステータスを見ることができて、その情報が100%信用できるとしたら、どのように使うだろうか。
私が思いつく主な用途としては、
・敵対する生物の強さを確認し、安全かどうか確かめる
・食材が安全かどうか確かめる
・けがや病気がどの程度危険なものなのか調べる
・仲間がいるなら、その人(またはその他の生物)の健康状態や能力を把握する
・自分の成長を確認し、何が向いているのかを判断する
などだ。ステータスが出てくる作品を読んでいる方なら当たり前のように浮かぶ答えだが、実際に想像してみると、生きる上で明らかに過剰な情報量であることがわかるだろう。便利すぎるのである。
あ、「~すぎる」という言葉が出たので少しこれについて話させてほしい。本編とは無関係なので、興味のない人は読み飛ばしても構わない。
若者中心に大きな使用率を誇っていた「~すぎる」という言葉だが、最近はSNS以外でも、テレビ番組で非常に多く目にするようになった。私は、この「とりあえず~すぎるって言っておけば食いつく」という考えが、とても嫌いだ。
まず第一に、「~すぎる」は良い言葉ではなく、悪い言葉だ。最高、もしくは最低の状態を超過し、逆効果になってしまう場合に使われるものである。だから、見ていて違和感があるし、浅はかな考えが透けて見えるので、気分もあまりよいものではない。
さらに、「~すぎる」がなくても、程度を表す言葉はいくらでも存在する。それらの言葉を、1つの安易なものに頼ることで失うのは、ものすごくもったいないことである。そんなことだから、ボキャブラリーが足りないと言われるのだ。特に小説を書いているというのであれば、色々な表現を、効果的に使えるように努力すべきだと、私は思う。
すまない。元の話に戻そう。
ステータスが見えてしまうことで、例えば、「自分が向いていることと向いていないことが、少しの体験でわかる」や、「物事の難易度が簡単にわかってしまうので、失敗をすることなく生きることができる」といった人間になってしまうのだ。そうなれば、今や未来に悩むことや、思わぬ失敗をすることが格段に減ることだろう。
嫌なことはしたくない、無駄な努力はしたくない。そんなことはだれでも思うことだから、それなら「人生イージーモード」でいいじゃないか。と思う人もいるのかもしれない。特に、失敗を続けてきた人はよりそう思うだろう。
でも、本当にそうなのだろうか。私は、そのイージーモードに惹かれるのは
「自分がすでに失敗を経験していて、それから解放されたいという一時的な欲」
だと、考える。なぜなら、実際にそんなことがこれから一生続くとしたら、後々の人生は「感動が何一つない、単なる作業」になると思うからだ。これ以上詳しく説明する必要はないだろう。ともかく、私はそんなことは絶対嫌だ。それに、
「小説という、主人公の苦悩や成功を描くことで読者の心を動かす作品」において、それをするのは間違っているのではないか、というのが私の結論である。
この「新・ステータス」シリーズは、今回で終了だ。私がブログを始めた理由を見つめなおすと同時に、たった数か月ではあるが、成長と考え方の変化を確認することができた。
この記事を更新したら、先日Twitterで募集した最近の「ステータスありファンタジー小説」を読んでみようと思う。新たな発見があることに期待したい。
今回、初めて途中に別の話題を書いてみたのだが、読みにくかっただろうか。特に要望がなければこのままいくつもりだ。
それと、より読みやすくする方法を募集する。色があったほうがいいとか、アンダーラインがあるといいとか。そんなことを送ってくれれば、次から試験的にやっていこうと思うので、ぜひ頼む。
新・「なろう系異世界小説」で「ステータス」を設定するのは損ではないかpart3
自称アニメ・ラノベ評論家、オレオだ。皆さんは普段、何かを紙に書くときに何を使っているだろうか。シャープペンシル? ボールペン? 鉛筆? それぞれ良さがあると思うが、私はここ2年間、鉛筆を使っている。シンプルな構造ゆえの細さと、柔らかい芯が私には合っているようだ。こんなことも、小説を書くうえでネタになるだろうか。せっかくなので、今度それに関する記事も書いてみようかと考えている。
ついに3つ目に突入した「ステータス」の話。今更だが、そもそも今から書こうとしている人たちは、ステータスを書こうと思っているのだろうか。私のステータスについての知識は、現在アニメ化や漫画化されているものから来ているもののため、もしかしたらアップデートする必要があるのかもしれない。
まあそんなこと言っていても仕方ないので、また前回のノリで書いていこう。
〇損だと思う理由③「読者が、実践前にキャラクターの成長を把握できてしまう」
「よっしゃ! レベルアップ! 攻撃力(腕力? 脚力? それって防御力や素早さも上がるのでは?)が5上がったぜ!」
なろう系ではもはや見慣れた光景となったこのような言葉。強敵を打ち破り、自らの成長を数値として実感できるというのは、ステータスの強みの1つだろう。
誰しも、「こんなことをやって上手くいくのか。成長できているのか」というのは、実践しないと感じづらいものである。しかし、ステータスがあれば着実に自分は強くなっているのだということを把握できる。
それは大きな自信になるし、モチベーションを保つことに多大な貢献をしているといえるだろう。ステータスは、精神安定剤としても万能に働いてくれるのだ。
さて、今回話したいのは、その「ステータスが上昇する」ことが読者にもわかってしまうのは問題ではないか、ということである。
「異世界ファンタジー」において、ほとんどの作品は戦闘描写は大きな見どころである。主人公の新たな一面が見られたり、他キャラクターとの関係が進展したりするし、キャラクターの背景をしっかり描いている作品なら、敵キャラクターにファンが付くことも珍しくない。それに、「主人公の今までの努力や経験が、1番発揮されるところ」なのだ。
戦闘シーンとは、そこまで積み重ねてきたことを発表する場であり、試験場なのである。そして、試験官は敵キャラクターであるのだが、「読者も、主人公を書く作者にとっての試験官」であると私は思っている。
作者は、戦闘シーンで、いかに主人公の成長や新たに会得した考え方や技を、魅力的に見せることができるかが試されるのだ。
そんなとき、もし主人公や敵のステータスがあらかじめ見えていたら? 結果が分かり切ったものになっていたら? これでは、どんなに迫力のある、ギリギリのバトルを描いても、読者は全く感動してくれなくなってしまうだろう。
この理由により、私はステータスは「読者の感動を薄める要素」だと思っている。これを逆手にとって効果的に使える人も中にはいるが、それにはそれ専用の手法があるはずだし、それを簡単に会得できるとは、私には思えない。少なくとも慣れるまでは、数字に頼らず、言葉で状況を説明する力を身に着けるべきだと思うのである。
今回はこれで終わるが、まだまだ書きたいことがあるので、もうしばらくお付き合いいただきたい。私なりに、これはちゃんと全部書いてまとめておきたいのだ。
そのかわり、このくらいなら短時間で書けることが分かったので、あまり日を開けることなく投稿するから、また次回も見に来てほしい。
こんなに「ステータス」を否定してはいるが、「ステータスを書くという手法」は残ってほしいと思っている。先ほども言ったように、ステータスを書くことで笑いを取っている作品(「この素晴らしい世界に祝福を!」など)も複数存在するのもまた事実だ。
ただ、だからといって、それにすべて頼っていてはいけないと思うのだ。小説は、言葉で伝え、読者が想像することで完成する世界。だから、数値という完成されたものではなく、あえて抽象的なものを使うことも、小説の魅力であると、私は考えている。
新・「なろう系異世界小説」で「ステータス」を設定するのは損ではないかpart2
自称アニメ・ラノベ評論家、オレオだ。1週間以上期間が開いてしまった。これはただの趣味だし、更新日を決めているわけではないから、だからといって読者に謝ったり自分を責める必要はないと思っている。ただ、せっかくついてくれた読者が離れてしまうのは本意ではないので、まあ日常生活に支障がない程度にやっていこうと思っている。大学受験が終わるまではまばらになると思うが、これからも見てくれたら嬉しい。
前回の続きを書いていこう、と思ったのだが、間が開いてしまったので内容を確認……。なるほど、「ステータスの数値は、実際の人間にとっては曖昧だ」ということを話したのだったな。では、今回はそれについてもっと詳しくみていこう。
〇損だと思う理由②「体力の数値が扱いづらすぎる」
ステータスには、「HP」ヒットポイントという数値がある。これは、その生命体の体力を表すものだ。「ヒット」というくらいだから、ゲームでは攻撃が当たったときに元の数値からダメージ分が引かれて体力を計算している。ここでは、これを本当の人間でやったらどういう風に表せばいいのかを考えていく。
さて、まずは生身の人間が傷を負ったとき、どのようにして体力が減っていくのかを考えてみよう。
例えば、男性Aがナイフでわき腹を刺されたとしよう。ステータスには「HP80/100」と表示された。さて、ゲームならここで計算は終了で、「体力が5分の1削られた」わけだ。じゃあ後4回食らったら死んでしまう。これで終わりである。
だが、小説の世界は現実だ。現実の人間は、それだけで終わるわけにはいかない。さて、先ほどのように体力が一瞬で5分の1削られたとして、その後の男性Aはどうなるのかというと
・血が出続けて体力が減り続ける
・痛みによって身体能力が低下する
・痛みに慣れていなければ意識を落としたり、発狂したりする
・治った後も後遺症が残ったり、トラウマになったりする可能性がある
・傷口から病原菌が入ったりして、病気になる可能性がある
素人が思いつくだけでも、これだけのことが起こるのである。まあ、後半2つは傷がついてすぐのことではないのでおいておくとしても、上のほうはステータスに反映しなければならない。
これらのことを考慮すると、けがした後ステータスを表示したときに、大量のバッドステータスを書き足さなければならない。しかも、血が流れていけばいくほどそれは大きくなるし、一定を超えたら眩暈や思考力低下すら起きてしまうのだ。こんなことをやっていては、もう物語の進み具合など目に入らなくなってしまう。
だが、これには楽な解決方法があるのだ。それは、「戦闘シーンではステータスを表示しないこと」である。そうすれば、怪我をしたら発生する能力変化を状況として説明するだけでいいし、面倒なことはスルー出来る。能力を使うときや新たに習得したときだけ部分的に表示すれば、読者が混乱することも少ないだろう。
でも正直、そういう作品をたくさん見てきた私からすれば、「そんなに書くのが面倒なら最初から書かないほうがいいのでは?」と思ってしまうのだ。だから、ステータスを表示するのであれば、それを存分に生かした、「ステータス特化系小説」にするくらいの気持ちを持ったほうが1周回って面白いと思っている。
いかがだっただろうか。もうすでに、「ステータスって面倒くさい」と思ってもらえているかと思う。
小説を読んでいるときは、そんな細かいことは気にしないかもしれないが、「よく考えてみると引っかかる」というのは、かなり厄介なものである。その作品を読むたびに、その考えが頭をよぎってしまうのだから。
だから、そういう小さな問題をなくし、どこまで自然に書けるか。それを追求してみるのも、ファンタジー作品を書くうえでは重要なことであるし、とても面白いことだと思うのである。
短いが、今回はこれで終わりにする。明日時間があったらまた更新するので、良ければ見てほしい。詳しくはツイッターで。
最近の記事はどれもこの倍くらいの量があったが、このくらいの長さで、短い間隔の投稿のほうがいい気がしてきた。まあ、結局はその日の気分次第なのだが。ではまた次回。